コクーン歌舞伎南番  【東海道四谷怪談】

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冷たい夏の物語。まさに怪談である、出来うるならば夏ほどの陽気に観たい。

東海道四谷怪談の面白さというのは、あくまで岩が女であり伊右衛門が男だということだ。
岩に執着しながら、自分のものにしたあとはじっとり疎ましそうな冷たい目で彼女を見る伊右衛門。蚊帳や着ぐるみをはぐときの怒鳴り声。
橋之助の伊右衛門が「早くしろ!」と一喝した瞬間、勘三郎から響いた岩の心理が私を音叉にしてしまった。平たく言えば、岩に共鳴してしまった。従うしかないだろう、あんな怒鳴り方をされたら。最低だとか邪険だとか言っている場合じゃないのだ、瞬間の恐怖は当たり前に様々なものを凌駕する。

岩の根元的な女らしさといったらない。もちろん優しいとか情がこまいとかそんなもんじゃなく、考え方、感性の動き方での女っぽさだ。
主君の関係で伊東は伊右衛門の敵筋にあたるわけだけれど、そんな大義名分よりも岩は「自分たちによくしてくれる」から伊右衛門に伊東へ礼にいけと言い、貰った薬を一塵も残さず押しいただいて飲み、伊東をおがむ。
意味や関係性を省いたダイレクトな感謝だからこそ、裏切りだと知った時の激情は凄まじいのだ。
提灯から飛び上がった岩の、感情的な氷つくような恨みの笑い。息を呑んだ。
伊右衛門は岩に「成仏しろ」といい、岩は「ともに奈落へ」という。どっちも自分勝手である。案外こういうところが、男と女の違いなのかもしれない。

勘三郎の岩は声に難があると見ていたが、それこそ伊右衛門宅にあってはかなりの説得力になって映えた。産褥で病みつかれ、目を伏せがちにかすれた声で子をあやす岩の姿は、幽霊になった姿よりもある意味、生臭く背筋を冷やすものがある。伊右衛門が疎んじるのもわかる、見ている方としたら大変である。
――リアルだ。

蚊帳をやるまいとしがみつく岩の姿に笑いが起こるのは、私には理解できても納得しえない現象だった。滑稽な姿かもしれない、確かに。しかし、岩の音叉になってしまった私には、笑うどころか泣き出しそうなほどに惨めな姿だった。
リアルなのだ。まるで、隣家の家族崩壊を見ているように。

歌舞伎役者というより、ただのアクターとして、中村勘三郎は凄かった。岩の女のリアリティが、与茂七にも小平次にもなる勘三郎に宿っていた。
コクーン歌舞伎が歌舞伎であるかどうかはもうどうでもいい。形や伝統にのっとった故の悪所も良所も、そうでないところでのそれらもあった。劇場全体をお化け屋敷にしてしまう発想の魅力など――それらも、ひとまず置いておく。

私はこの芝居で自らの岩に出会ってしまった。そして、伊右衛門にも。
これが、【みせられる】ということなのだ、と思った。


※イラストはイメージであります。



蛇足


四谷怪談はもう怨念怨念した台詞がいっぱい。
「さぞや笑わん、口惜しや」
「瀬をはやみ岩にせかるる――その岩が、思う男はおまへならでは」
「首が飛んでも動いて見せるわ」

「きゃつめら、さぞかし私を笑っているんだろう。悔しい、……悔しい」
肉体的なダメージよりも、人がどう自分を見ているかの憶測で怒り、嘆き狂うお岩。すげえよ南北。それが女だよ、多分。その怒りが伊右衛門に直結する所も。
そして伊右衛門は色悪にすぎる。色悪という言葉はほかに言い表しにくいからすげえと思うよ。

お岩×お化け屋敷状態になったパニックコクーンシアターの相乗効果で、もし隣からお岩さんがでてきていたらわたしは怖いやら嬉しいやら(だって勘三郎だもん)で失神したかもしれない。出てきたのは鼠でした。それだってびびった。
薬下されの小平次の指は、ちゃんと蛇になっていたんだろうか。

鶴屋南北の物語は、最終的な子どもの扱いがぞんざいすぎる。嫌いだったんでしょうか、赤子が?
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by lowoolong | 2006-03-26 07:08
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